「似非スピリチュアル」の見分け方
神社をはじめ、聖地を訪れる目的は何でしょう。あなたはどんな思いで、その聖地を訪れているでしょうか?
「お賽銭を一万円に弾みますから…」などと、神様と駆け引きしていませんか?そもそも、清らかな心の方が駆け引きをするでしょうか。
聖地を訪れる目的は、いつも見守っていただいていることに対する感謝を伝えるためです。
そもそも、「神様」と直接的に会話を交わすことなどできません。ですから、「こんな風に神様に話しかけると金運が上がります」「お金を洗ったら貯まります」「聖地のパワーをいただくために、あの石をもらってきましょう」などなどあり得ないのです。
1回参拝しただけで運気が上がることもない。お金を洗ったところで表面が綺麗になるだけ。聖地にあるものを無断で持ってきたなら、逆に何が起こるか恐ろしいです。その怖さを知っていますか?
そんな言葉や、自らを「神」というようなところは、残念ながら本物ではないでしょう。冷静に分析すればわかるはずです。もしも、そんなことで人生が好転し変わったならば、そこに行った人だけ、参拝出来た人だけが幸せになる、そんな不公平を神様が望むのでしょうか?
苦しい時ほど何かにすがりつきたくなるのは理解できます。けれど、その弱みに付け込む輩もいることを、考えなければなりません。不安定な世の中になればなるほど、自分の弱さと向き合わなければならないでしょう。その時にこそやって欲しいことがあるのです。
真実に目覚めよう
人はよく、「不公平」と嘆きながら、自ら不公平をつくっているように感じます。
棚ぼた式のご利益主体の「似非スピリチュアル」では、”自分さえよければ”の不公平を実践していることになるからです。姑息が不幸を生みだしつくっています。本当に幸せになりたければ、姑息な生き方はやめましょう。
神様の世界は、どんな時も「公明正大」。真実はとてもシンプルです。
人生に近道はない
私もこの世で学ぶ未熟者のひとりです。間違いもたくさんありました。けれど、どんな時も自分に正直に生きた結果でした。そして今振り返ると、無駄なことは一つもないことに気づきます。
人は少しでも楽な方へと近道を探します。けれど、私たちの人生に近道はないのです。あったとしたならそれは、とてもつまらない人生になるでしょう。
山あり谷あり、喜怒哀楽を学びに私たちは生まれたのです。それを忘れ、何ごともない人生を望むのは自分との約束に反しています。
何かあるのが人生です。人生はドラマチック!
自然界はいつもお手本。私も植物のように、太陽に向かって顔をあげ伸びていきたい。あなたは日陰に向かいますか?違いますよね?
顔を上げて、前を向いて。
あなたの足で、地に足をつけ情報をしっかり分析し、誰のせいにもしない、あなただけの人生を謳歌してください。こんな時代だからこそ真実を見極める力を身につけ自分を守りましょう。
今日も素晴らしい一日を。
いってらっしゃい(^^)