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この世に「苦難」がある意味

人生は「旅」によくたとえられます。人間はこの世を生き抜く旅をし、定められた時期に自分のたましいのふるさとに帰っていきます。

人はそういう宿命を背負ったスピリットの存在なのです。

人生が「旅」というなら、旅の名所はどこなのでしょう?
それは”経験”と”感動”といえるのではないでしょうか。さまざまな経験は自分自身のたましいの輝きに繋がっていきます。嬉しいことも悲しいことも、怒りも寂しさも、楽しくワクワクし幸せな出来事も、悔しさや痛みも、すべての喜怒哀楽があなたのたましいを磨いていくものなのです。

この世にある「苦しみ」とは?

この世の苦しみとして、まず「病気」が挙げられるのではないでしょうか。それから「お金」、「人間関係のトラブル」。そして人間の究極の苦しみは「死」かもしれません。

「なぜこんなにつらい目に遭わなくてはいけないのだろう」「毎日つらいことばかりだ」

苦難に直面したとき、悲観したくなる気持ちは十分理解できます。ですが、病にしろ、金銭的な問題にしろ、この世「現世の人たち」が苦しみだと思っていることは、”あの世”にはないのです。私たちが苦しみと思うことは、この”現世”にしかないことなのです。

こんな風にお話すると、早く死んだほうがいいと、自死を促していると誤解される方がいるのですが、それはとてもインスタントな幼い思考です。この世から逃げても何一つあなたのためにはならないことを知っていただきたい。この世に生まれた神秘や意味をあなた自身がしっかりと受け入れることからはじめてみましょう。

なぜ?「あの世」と「この世」があるのか

人は、簡単に「この世は闇だ」「死んだらあの世行きだ」などと口にします。なぜ?「この世」と「あの世」の二極化した場所が存在するのでしょうか。考えたことはありますか?

とくに、「あの世」では階層(ステージ)の法則といって、それぞれの階層に合った人たちが集い、グループを作っています。たましいのレベルも愛の電池量も、何もかもが自分と共通した人ばかりがいる世界。そんな場所にいれば、この世と違って、人間関係も波風も立たず平穏です。体もありませんから、考えていることも瞬時にわかります。嘘も隠すものがありません。穏やかな時間でしょう。

ところが、「この世」には、さまざまな階層の人が入り混じっています。マザー・テレサのように慈悲深い階層の人もいれば、血も涙もない極悪非道の殺人鬼もいて、共に生きています。善人も悪人も混在するような世界の中で生きていくのは本来とても大変なのです。

考えてみれば、あの世だけの方が生きやすいはずなのに、霊的世界は一見無用に見える「この世」というものを、なぜつくったのでしょうか。なぜ?わざわざ、たましいが現世に生まれてくるようなしくみにしたのでしょうか。

そういうことを分析してみると、人生の謎、苦難が存在する意味が少しずつ分かってくると思います。

「あの世」と「この世」

では、あの世とこの世を対比して見てみましょう。

「あの世」というのは非物質界です。肉体がありません。肉体がないのですから病気もありません。仕事も、役割というものはあったとしても、生業を得るための仕事はありません。ですから「あの世」には肉体に伴う苦痛は一切なく、食べる必要もなく、お金も、ないというより、そもそもいらないのです。これが一番おおきな「差」といえるでしょう。

もう一つ大きな違いは「言葉」です。向こうの世界には言語が存在しません。

この世に言語があるのは、言葉を音声として発して意味を伝えなくてはいけないから。ですが向こうの世界では、すべてテレパシーで感じることができるため言語は不要なのです。人の心も常に通じ合っています。相手が何を考えているのか即時にわかる。理解不能ということはあり得ないのです。

それに比べて、現世はどうでしょう。ひとり一人が個として肉体という物質の中に入っていますから、他人の考えていることがわかりません。”裏腹”などという言葉があるように、表の顔とお腹の底は、まったく違っていたりするわけです。だから、この世を生きるとき、人間関係が苦しみになったりするのです。

人生はたましいのスポーツジム

現世はまるで、たましいのスポーツジムだと私は思います。この世で出会う人生の問題はすべて、たましいの筋力増強のトレーニングになっているからです。トレーニングは楽しいだけではないはず。難儀であり、苦しかったり、筋肉痛があったりしますね。でもそれを「苦難」とは思わないはずです。自分のからだのため、健康のためになると思うから行っていますよね。安くない会費まで払って行くものを「苦難」とは思いませんね。

たましいも同じです。生まれて死ぬまで、何ごともなく平和に幸せに暮らしていきたいと願うのは当然のことです。ですが本当にそれだけなら人格の向上はあり得ません。

苦しみを乗り越えてこそ人間として磨かれるのです。棚ぼたや何の不自由もない幸せな暮らしばかりを望んでしまうのは、「弱さ」から。怖じ気づいて内にこもってしまうのです。スポーツジムの会員になっているのに「億劫だな」と思いさぼるのと同じ。会費だけ払って勿体ないですね。

実は、人というのは本質的に自分を鍛えるのが好きなのかもしれません。無意識の行動なのですがわざわざ苦しいものに挑み自分を鍛錬したい生きものといえると思います。修練、鍛錬はもっと上のステージに上がりたいという向上心が人にはあるのだと思います。

私たちは誰もが皆、自分自身のたましいや心を鍛えより高い人格になる、そして、より輝けるオーラを身につけることを目指して生まれてきたのだという真実をどうか忘れないでください。私たちは本当はあの世では味わえない「苦難」を味わうために今この世を生きているのです。共に成長していきましょう。

すべてはあなたの捉え方で、見える景色が変わるのです。

今日も素晴らしい一日を。

いってらっしゃい(^^)